芝八事件 そして薬剤師法の制定へ

日本薬剤師協会(当時)内では、曲がりなりにも医薬分業法が実現したことを受け、薬剤師の身分法である薬剤師法制定に向けての要望が次第に高まり始めていた。当時、調剤の義務規定など薬剤師の身分や職能に関する規定は、薬事法により規定されていたためである。

薬剤師法は、実は大正十四年に制定され、昭和十七年まで施行されていた。この大正十四年の身分法の制定を巡っては、日本薬剤師協会の内部には議論があった。それは、次のような大正五年に起きた芝八事件が原因であった。

芝八事件とは、東京芝区の八人の薬剤師が、患者の求めに応じて医師の処方せんなしに投薬を行っていたとして、医師が告発した事件であった。だが、この事件、実は芝区の医師が、患者に指示して、作為的に薬剤師に調剤せしめたものであることが明らかとなり、裁判の結果無罪となった。医薬分業を巡る医師と薬剤師の抗争は、このような事件を生むまでに至っていたのである。

この事件は、日本薬剤師協会内では〝混合販売(売薬と調剤の混合)〟問題と呼ばれ、議論が起こった。医師の処方せん義務を明確化しないためにこのような事件が起こる、その解決なくしての早急な身分法の制定は、〝曖昧なままの処方せん発行義務〟という既成事実を容認することとなると、反対意見が出た。しかし、結局、日本薬剤師協会は、薬剤師法の制定を政府に要望、大正十四年、薬剤師法は制定された。だが、昭和十八年、太平洋戦争下、「薬事衛生ノ適正ヲ期シ国民体力ノ向上ヲ図ル」こと、すなわち戦力強化を目的として、薬品営業並薬品取扱規則(明治二十二年制定)、売薬法(大正十四年制定)、そして薬剤師法が統合され、臨戦薬事法が制定された。

終戦後の昭和二十三年、臨戦薬事法は廃止され、戦後薬事法が制定された。同法でも、薬剤師の身分、職能に関わる部分はそのまま薬事法に盛り込まれたままとなったが、悪戦苦闘の末、昭和三十一年、医薬分業法が施行されたことから、会内に医師、歯科医師のように身分法を制定すべきという声が次第に高まっていった。