薬剤師法成立
昭和三十三年二月二十一日、日本薬剤師協会代議員会は、薬事法改正を求める次のような決議を満場一致で可決、薬剤師法制定への活動は加速された。
決議
「現行薬事法は医薬品及び薬業の特殊性を無視し、かつ薬剤師の身分に関しては何ら法的裏付けがない。かかる基本法の不備により国民皆保険を目前にして、保険薬局は将に崩壊の危機に瀕している。従って現行薬事法を基本的に改正するため、これが改正案を急速に国会に提案されんことを望む。これがため、全国の薬剤師はあらゆる手段を尽くして、これが実現に努力するものである」。
日本薬剤師協会、全国薬剤師連盟(薬政会の後継政治組織)の積極的な陳情活動を受け、ついに厚生省(当時)は、昭和三十四年七月、薬事制度調査特別部会において審議を開始、同年末、薬剤師法案が答申された。そして昭和三十五年、第三四回通常国会に新薬剤師法案、新薬事法案が提出された。
だがその年、政局は緊迫していた。いわゆる六〇年安保闘争の真っ只中にあったのである。安保とは、日米安全保障条約。昭和二十六年、第二次世界大戦の対戦国との間で結ばれたサンフランシスコ講和条約と併行して、日米間で結ばれた安全保障、経済協力等に関する条約である。その改定を巡って、前年の昭和三十四年から国論を二分する大激論が繰り広げられていた。
翌昭和三十五年、通常国会の日米安全保障条約等特別委員会において審議が行われた。委員会はしばしばストップ、混乱に陥った国会を、労組、学生、市民団体などが取り囲み、一方、右翼団体、暴力団まで加わり、互いに激しいデモ行進を繰り広げた。国会構内に突入しようとするデモ隊と機動隊とが衝突を繰り返し、女子学生一人が死亡した。予定されていた元米国大統領アイゼンハワー夫妻の訪日は中止となった。そして混乱の中、安保条約は同年六月十八日、参院で審議未了のまま自然成立した。
だが、そのあおりを受けて、その後も国会は空転。薬事法、そして薬剤師悲願の薬剤師法案は風前の灯火、審議未了のまま廃案の危機に瀕した。そして、延長国会最終日の七月十五日夜八時半過ぎ、辛うじて衆院本会議において可決成立した。
同年八月、新薬事法、そして悲願の薬剤師法の成立を祝って、日本薬剤師協会は祝賀会を催した。祝賀会には、衆参国会議員、厚生省行政官など六五〇人が出席した。安保の混乱の責任を取って辞任した岸信介総理大臣に代わって、就任したばかりの池田隼人総理大臣が出席、祝いの言葉を述べた。