新たな闘いの始まり
昭和三十一年四月一日、医薬分業法は施行された。太平洋戦争終結から一○年を経て、日本は復興への道をひた走り、「もはや戦後ではない」と政府の経済白書は謳い、高度経済成長期の入り口にさしかかっていた。日本薬剤師協会は、医薬分業法施行前月の三月を〝新医薬制度(医薬分業)周知月間〟として、国民に向けキャンペーンを実施した。
翌昭和三十二年四月、日本薬剤師協会は、医薬分業実施一周年の記念祝典を開催した。だが、法施行後の四月から翌年三月までの一年間に発行された院外処方せんの枚数は、次のように微々たるもので、全国の薬剤師の期待には遠く及ばないものであった。
昭和三十一年四月の調剤件数は一四七七件、翌三十二年一月には五五九七件まで増加したが、三月は五一〇七件に減った。結局、昭和三十一年四月調剤分?三十二年三月の一年間の調剤件数は、四万三六三〇件(処方せん枚数六万八三七九枚)にすぎなかった。
思えば、昭和三十年七月二十九日の国会参議院社会労働委員会の審議において、医師法第二十二条のただし書きの追加規定案に対し、高野一夫参議院議員は、「このただし書きでは、処方せんがほとんど出ない仕組みになっている。いかがか」と追及した。これに対し、改正案の提案者となった医系議員の代表者は、「全国の大多数の医者は、ほとんど全部、むやみに処方せんを出さないとか、あるいはこの法の精神を無視するようなことはないであろうと、こう深く信じております」と回答した。だが、高野議員が示した懸念は、現実のものとなった。
以後、医薬分業は一進一退を続け、時日のみを経過していった。
だが、それから一八年を経た昭和四十九年、医薬分業は突如として動き出す。そしてそれから更に三十三年を経た平成十九年度、ついに処方せん枚数は約六億八三七五万枚、処方せん受付率は五二・七パーセントに達した。
一世紀余にわたり、ほとんど進展を見なかった医薬分業が、なぜ、急速な進展を見せたのか。それは、薬剤師の懸命な政治運動の成果であった。
「医薬分業が辿ってきた道 第二部」では、医薬分業法施行から半世紀、分業進展をけん引し続けた日本薬剤師連盟の活動の跡を辿ってみることとする。