医薬分業が辿ってきた道【第一部】~その6~ 最終章

  昭和二十八年、日本薬剤師協会は医薬分業法の円滑な実施を期して、同年の第三回参議院議員選挙において、当時の日本薬剤師協会会長高野一夫を擁立、高野会長は当選を果たした。

  だが、その医薬分業法の施行を翌年に控えた昭和二十九年、医薬分業法をさらなる悲劇が待ち受けていた。同年の第一九回国会に、「医師法、歯科医師法及び薬事法の一部を改正する法律(医薬分業法)」は、「医師法、歯科医師法及び薬事法の一部を改正する法律の一部を改正する法律案」という屈辱的な名前に変わって、強制医薬分業に強硬に反対する医系国会議員らによって提出され、再び審議に付されることとなったのだ。医薬分業法の施行まであと二カ月弱となった同年十一月、衆議院厚生委員会において、医薬分業法の改正案を巡って激しい議論が開始された。改正の内容は、昭和三十年一月一日の医薬分業法の施行時期を、昭和三十一年四月一日まで再延長するというものであった。

  改正理由は、大阪府など地方医師会による調査では、未だ薬局における処方せん受け入れ準備が整っていない、なお一定の準備期間が必要というものであった。圧倒的多数の議員が延期賛成に回り、改正法案の行方は決した。改正法案は強制分業反対派の議員の主導で、十一月二十九日、参議院厚生委員会において最後の審議を行い、一気に可決、成立した。分業法施行まで余すところわずか一カ月であった。本シリーズ第一回冒頭に掲げた高野参議院議員の苦汁に満ちた演述は、この日の参議院厚生委員会におけるものである。

  しかし、この医薬分業法の先延ばしもまた、さらなる悲劇へのプロセスに過ぎなかった。昭和三十年七月、第二十二回国会。再び、「医師法、歯科医師法及び薬事法の一部を改正する法律の一部を改正する法律案」が議員立法により提出された。

  改正の内容は、医師の処方せん発行を義務付けた医師法第二十二条の規定に、八カ条からなる「但し書き」を追加規定するものであった。それは、「強制医薬分業法」を、医師が自分の主観によって院外処方せんを出すかどうか判断することを認めた「任意医薬分業法」に一八○度転換するものであった。

  今に残る、医師法第二十二条但し書き八カ条。この但し書き八カ条によって、“強制医薬分業法は、“任意医薬分業法”となり、昭和三十年七月二十九日、可決され、昭和三十一年四月に施行された。しかし、法施行後も、依然として医薬分業が動き出す気配はなかった。薬剤師の“政治力の敗北”という重い十字架を背負い、日本薬剤師連盟、日本薬剤師会の苦闘はさらに続くこととなる。

  それからおよそ半世紀の歳月を経て、この“骨抜き分業法”と揶揄された「医薬分業法」が法的基盤となって、古言によれば「人々が捨てた石が礎となって」、医薬分業は、今日の処方せん七億枚時代を迎えることとなる。私たちは今、先人薬剤師たちの苦闘の歴史の遺産としての「医薬分業時代」を生きているのである。そのことを決して忘れてはならない。その後の医薬分業がどのように展開して「処方せん七億枚時代」を迎えるに至ったか、それは後日の話としよう。

(医薬分業が辿ってきた道 終)