医薬分業が辿ってきた道【第一部】~その1~
「現在行われておりまする政治攻勢による分業反対は、これは国会に如何なる影響を与えたか私は存じまぜん、。併しながらかかる分業反対の議論を見ますと、殆んど学問的には薬学抹殺、法律的には薬剤師抹殺でございます。(中略)医薬分業が不可であるとするならば、これは日本において薬学を教える必要は毛頭ない。現在二十六あります国立、公立、財団立の薬科大学はことごとく閉鎖して、然るべきものであると私は考えます。(中略)国民大衆のためというならば、本当に両方の学問が相協カし合つて一人の患者を治すという体制に一日も早く立帰るべきではなかろうかと私は考えるのでございます。
この烈々たる演説は、昭和二十九年十一月二十九日、参議院厚生委員会における当時の高野一夫参議院議員(日本薬剤師会第十七代会長)の国会質問の抜粋である。この日、厚生委員会では昭和二十六年に全会一致で成立し、昭和三十年一月一日実施される予定であったいわゆる「医薬分業法」をさらに修正する「医師法、歯科医師法及び薬事法の一部を改正する法律の一部を改正する法律案」の審議が行われていた。同法案は国会議貝の議員立法によって提出されたもので、この日の議論では、分業反対の側に立つ国会議貝たちが、同法の施行時期を引き延ばすだけに留まらず、議論を蒸し返し分業反対論をぶちまくった。そんな四面楚歌の中、高野議員は理不尽な議論に真っ向から反論を行った後、退席する。分業先送り法案は高野議員欠席のまま賛成多数をもって可決され、結局、昭和三十一年四月一日施行されることとなった。そして先送りされたその一年三ヵ月の問に、再び「医師法、歯科医師法及び薬事法の一部を改正する法律の一部を改正する法律案」が国会に提出され、今日、医師法第二十二条に残る「ただし書き八項目」が追記され、昭和三十年八月八日公布されることとなる。結局、医薬分業法はその後、三十年問にわたり開店休業状態に追い込まれることとなった。だが、こうした先人薬剤師たちの苦闘の歴史を礎として、今、医薬分業率は55.8%に達しかのだ。戦後六十年、わが国の医薬分業はいかなる道を歩んで今日に至ったか、振り返ってみたい。