医薬分業が辿ってきた道【第一部】~その3~ 山は動き始めた
連合軍最高司令部(GHQ)の強制医薬分業の勧告は、当然、国会で取りあげられた。昭和二十四年十二月一日、第六回国会衆議院厚生委員会において、次のような趣旨の質疑応答がなされた。
川崎委員:九月十三日、GHQから日本側に手交された勧告書で、医療と薬事とを法的措置と教育手段によつてこれを分離しろということを勧告している。政府はどういう考えを持つて勧告に対処して行くかおうかがいいたしたい。
矢野政府委員(厚生政務次官):ただいまの問題は、相当長い歴史性を持つた重大な問題であり、どういう時期に、どういう方法をもつてこれを勧告書に沿うごとく実施するかについては、まだ最終の結論に達していない。なるべく早い機会にその御質問にお答えを申し上げたいと思う。
日本医師会はGHQ勧告に猛反発した。昭和二十五年二月二十七日の日本医師会臨時代議員会、翌二十八日の総会において、「サムス准将の言う『日本の医師が薬を売って生活を立てている』という状態は改善されなければならない。しかし、医療の本質として医師が有すべき調剤権を法律をもって禁止しあるいは制限することは絶対に反対である」という趣旨の決議を採択した。田宮日医会長(当時)はサムス准将に直接面会し、強制医薬分業には絶対反対する旨を伝えるとともに、「日本人には、医師の無形の学識、労力に報酬を支払う観念がなく、診療報酬には技術料が含まれていない」と訴えた。
一方、薬剤師会にとっては、千載一遇の機会の到来であったことはいうまでもない。昭和二十五年の第八回国会には全国各地の薬剤師会、薬剤師などから強制医薬分業制度の確立を求める一五五六件の請願書が殺到した。もちろん、反対の請願も数多く提出された。これらの請願に対して政府はどのような対応を取るのか、との同年七月二十九日の衆議院厚生委員会における質問に、厚生政務次官は次のように回答した。
平澤政府委員(厚生政務次官):ご答弁申しあげます。(中略)医薬分業の問題につきましては、臨時医薬制度調査会並びに臨時診療報酬調査会、この二つの調査会を設けまして、この両調査会から出てまいります答申を参考といたしまして、多年にわたる問題を解決いたしたい、かように考えまして、(中略)調査をいたすことになつておるのであります。(中略)厚生省といたしましては、最善の努力をいたしまして、多年にわたるこれらの問題を解決いたしたい、かように存じている次第でございます。
昭和二十五年八月七日、厚生省は、臨時医薬制度調査会及び臨時診療報酬調査会を開催した。翌二十六年一月二十四日、診療報酬制度調査会は、「診療報酬と調剤報酬を分離させ、また、技術料と物の価格(薬価等)を分離する」との答申を医師会推薦委員も含め、全会一致でまとめた。この答申を受け、有識者、医師、薬剤師代表、患者代表などからなる臨時医薬制度調査会が、医薬分業の可否について審議を開始した。同年二月二十八日、同調査会は多数の傍聴者が見守るなか、「法改正により、昭和二十八年から強制医薬分業を実施する」との意見を一九対一一で採択し、厚相に答申した。
答申に基づいて、政府は同年三月六日、「医師法、歯科医師法及び薬事法の一部を改正する法律案」、いわゆる医薬分業法案を国会に提出した。薬剤師関係者は、ようやく明治以来の永年の夢が実現に向かって動き出したことを実感し、感泣した。だが、事態は思いもよらぬ方向へと動いてゆく。