よもやま話

<2016年12月>

「物と技術の分離」を目指す新医療費体系を巡る議論


医薬分業法は、昭和三十年一月一日から施行されることとなっていた。しかし、医薬分業法の施行を直前に控え、国会では同法施行を無期延期しようとする分業反対派の動きが激しさを増していた。

その一方、厚生省は、医薬分業を前提とした新たな診療報酬体系を定めるべく審議を進めた。昭和二十六年、厚生省の臨時診療報酬調査会は、医師の診療報酬を「物」と「技術」に分離するよう答申していた。それまでの診療報酬では、「薬治料」として、薬価と医師の診断、処方料を包括した報酬額が定められていた。昭和二十九年、医薬分業法の施行を前に、厚生省は、医薬分業の理念の下に「物と技術を分離する」という考え方に立って、「新医療費体系」を中央社会保険医療協議会(中医協)に諮問した。薬治料について、衆議院厚生委員会(昭和二十九年十二月一日)において当時の厚生省保険局長は次のように説明している。

「薬治料には、薬の原価も入っているし、技術料も入っており、薬価を基準にした決め方になっている。一剤の原価が十五円以下であれば二点、十五円を増すごとにまた二点を(技術料として)加えることになつている。たとえば薬価が従来三十五円の場合は六十円となる。仮に、三十五円が二十八円に下がれば今度四十八円になる。自然に、自動的に下がるような仕組みになっている」。

つまり、薬価一五円以下の場合は、技術料を含め二〇円、一五円を超える場合は、一五円またはその端数を増すごとに薬価に二点(二〇円)を技術料として加算したものが「薬治料」とされていた。この「薬治料」を巡って、今日の薬価問題と同じように、医療費増嵩の大きな要因と指摘され、国会でも議論が行われていた。「物と技術」を分離するという基本理念に立つ医薬分業を実現することは当時の医療政策の悲願であったといえるだろう。

しかし、医薬分業に反対する側は「物と技術を分離」、つまり、技術料と薬価を別建てとするという新たな医療費体系に激しく反対、医薬分業の実施期日までに中医協の答申を得ることが困難となった。そして、この間に、医薬分業法の施行は、昭和三十一年四月一日まで延期された。このため分業法の実施に際しては、薬治料および調剤料について最少限度必要な点数改正を行うという暫定措置が取られた。

分業法実施後の昭和三十三年、中医協は新医療費体系について厚生省に答申した。だが、日本医師会、医系議員を中心とする激しい反対にあい、厚生省は新医療費体系の告示に踏み切ることをためらっていた。これに対し、健康保険組合連合会、国民健康保険中央会など五団体が早期告示を要求した。このとき、日本薬剤師協会、日本薬剤師連盟は、日本医師会、日本歯科医師会とは行動を異にし、五団体と並行する形で、単独で政府に対し新医療費体系の早期実施を要望したのである。

昭和三十四年四月一日、医薬分業を踏まえた新医療費体系は、実施された。