地域を指定した強制分業法案?

国民健康保険法、健康保険法の大改正が行われ、昭和三十五年から三十六年にかけて、全ての国民に公的保険への加入を義務付ける国民皆保険体制が整備された。

その一方、厚生省は「我が国の医療制度は明治初期に確立されたもので、その後、基本的にはほぼその当時の制度を踏襲して今日に至っている。医療制度そのものを根本的に見直す」との方針を打ち出し、昭和三十五年五月、「医療制度調査会」を設置した。

昭和三十八年、医療制度調査会は厚生大臣に答申した。その答申の中で、医薬分業は昭和三十一年に医薬分業法が施行されても、なおまだ十分に行われていない、として、「医薬分業を確立するためには、処方せんの強制発行と純粋薬局の体制の整備を図るべき」であると提言した。

そんな中、国民皆保険の普及により、国民医療費は急速に増大していった。昭和三十五年四、〇九五億円であった国民医療費は、昭和四十年には一兆一、二二四億円と一兆円を突破し、国家財政にとって大きな負担となり始めた。国会では、健康保険制度及び診療報酬体系の抜本的な改革が、重大な政治課題となっていった。この医療保険制度の合理化の一環として、日本薬剤師連盟は、政府、自民党に対し医薬分業の推進を訴え続けた。

これに対し、昭和四十三年七月、日本医師会は、「薬剤師会は医薬分業に対する熱意がない。医師会の手によって調剤センターを設置する」と発表した。これを受けて、八月、日本薬剤師会、日本薬剤師連盟は、「日本医薬分業実施推進同盟」の結成を決めた。そして九月、自由民主党医療基本問題調査会(鈴木善幸会長、後の総理大臣)に対し、医薬分業に関する意見書を提出した。

自民党医療基本問題調査会は、同年十月、医療制度改革の検討項目として、医薬分業の推進を取り上げることを決めた。昭和四十四年五月に発表された自民党の「国民医療大綱」において、「おおむね五年後には全国的規模において医薬分業が実施されることを目標とする。」との基本方針が盛り込まれることとなった。

この国民医療大綱を踏まえて、昭和四十七年二月、厚生省の「医療保険制度に関する改革試案」が作成され、社会保険審議会に諮問された。この改革試案において、「医薬分業を行う地域を政令で指定し、その地域の医療機関は原則として外来投薬を禁止することとする」旨が記載された。

改革試案は社会保険審議会で基本的に承認され、同年五月、健康保険法の一部改正案等を含む医療保険抜本改正案が閣議決定され、第六八回通常国会に提出された。提出された健康保険法の一部改正案は、①医薬分業を行う地域を政令で指定する、②当該地域における保険医療機関は原則として保険医療に関する外来投薬については支払いを受けることができないこと、という、地域を指定した強制医薬分業法案となっていた。