医薬分業が辿ってきた道【第一部】~その4~ 強制医薬分業法案 国会へ
サムス准将の勧告は、「法により、強制医薬分業を実施する」というものであり、政府は医師法、歯科医師法及び薬事法の一部改正案(いわゆる医薬分業法案)を国会に提出した。
これに対し、日本医師会は、法による強制医薬分業に真っ向から反対を表明した。一方、日本薬剤師協会(当時)は、法の早期実現を求め、昭和二十六年三月二十五日、東京・神田一ツ橋共立講堂で全国薬剤師大会を開催、全国から二五〇〇人の薬剤師が上京し、会場は熱気に包まれた(写真)。
三月三十日、参院先議で審議が開始されたが、法案に反対する議員と賛成の議員との間で、激しい議論が展開された。
医薬分業の是非論は、世論をも巻き込み沸騰した。山口県防府薬剤師会ホームページ「薬剤師会のあゆみ」において、松村薬局の松村敏輔氏がこんな思い出を記している。
「そんな折NHKが一般人を対象に日比谷公会堂に於いて分業に対する公開討論会を開催、全国放送された。壇上では時の日薬会長 高野一夫(東大薬)かたや日医副会長 武見太郎(慶大医)御両人の所見発表はなかなか熱のこもったものであった。それからが大変である。聴衆席より両陣営の応援者の意見、質問の続出、中には在日外国人も混ざり大激論。会場全体が騒然となり司会のNHKキャスターの困却も大変でやっとの思いで閉会されたと推察致します。以後NHKによるこの問題への討論会は二度と行われることはありませんでした」
五月十六日、日本薬剤師協会は医薬分業達成要望国民大会を開催、三〇〇〇人の薬剤師が参加した。同二十一日には、全国から八〇〇〇人の薬剤師を動員して、御成門、浜松町、新橋、虎ノ門など都内のデモ行進を敢行した。その間、日薬は、強制医薬分業法案早期実現の決議書を国会議員に提出、各党議員に法案への賛成要請を行った。前出の松村敏輔氏は、若き日にこのデモに参加した時の状況を次のように回顧している。
「そんな緊張の続くなか、ようやく国会で分業法案が審議されるという見通しがついた時点で全国薬剤師総決起大会が東京で開催されることになり、(中略)山口県でも各支部に割当てがあり、防府支部よりは渋谷会長と若手三人(藤本(故)、笹井、松村)の四人が参加した。会場は白衣に白鉢巻の、全国よりの薬剤師で溢れ熱気に満ちたものでした。こんなことを思い出します。議長につかれた方が入れ歯のため言葉が多少聞き取りにくいかなと思ったとたんに会場の数ヶ所より議長を替えろとの怒鳴り声が飛び出し、やむを得ず交代された事を覚えております。それ程殺気立った会場の空気でした。翌日は各県選出の国会議員への陳情(中略)、最後は、白衣白鉢巻姿での座り込みデモです。我々の場所は三宅坂付近の石碑の前の空き地であったように思います。夕闇迫るまで数十名で座り込みを続けた事を思い出します」
だが、その一方で、思いもかけぬ事態が動いていた。GHQのマッカーサー元帥が、朝鮮戦争戦略を巡ってトルーマン米大統領と対立、四月十二日、解任され、突如帰国した。そしてなんと、五月二十二日、サムス准将もまた辞任、帰国のやむなきに至ったのだ。突如としてサムス准将という強力な後ろ盾を失った日薬の受けた衝撃は計り知れないのもだった。