よもやま話

<2016年12月>

医薬分業元年


昭和四十七年五月、健康保険法の一部改正案等を含む医療保険抜本改正案が閣議決定され、第六八回通常国会に提出された。

その医療保険改革法案において、医薬分業に関しては、健康保険法により、①医薬分業を行う地域を政令で指定する、②当該地域における保険医療機関は原則として保険医療に関する外来投薬については支払いを受けることができないこと、という案となっていた。

しかし、この医療保険改革法案は財政対策を柱とし、保険料率の引き上げなどを含んでいたことから、衆院では修正の上、通過したが、参院では野党の反対が強く、結局、国会審議は進まないまま、六月十六日、国会会期切れとなり廃案となった。医薬分業の実現という薬剤師の一世紀にわたる夢は、再びはるか彼方に遠のいてしまうこととなった。

その年、五月に沖縄の本土復帰が実現、七年八カ月続いた佐藤栄作内閣は国会終了後退陣、田中角栄内閣が誕生した。医療制度改革は改めて仕切り直し、昭和四十八年の通常国会に、家族の給付率を七割に引き上げる、保険料に対する国庫補助率を引き上げるなど新たな健康保険法改正案が提出された。しかし、既述の医薬分業に関する規定は含まれていなかった。

だが、そんな中で、昭和四十八年五月二十一日、当時の武見太郎日本医師会長と石館守三日本薬剤師会長の間で、医薬分業史を飾る画期的な会談が行われた。

その日、石館日本薬剤師会長は日本医師会館に武見日医会長を訪問、医療保険制度改革について意見交換するとともに、医薬分業について懇談した。この懇談の中で、武見会長は、法による強制分業には反対だが、基本的に医薬分業については賛成であると表明。その推進について、今後、日医、日薬が協力してゆくことで意見の一致をみた。この武見、石館会談の内容の一部を、『薬事日報』昭和四十八年六月九日号は次のように伝えている。

石館会長 私が会長就任の挨拶に伺ったとき、武見さんが自分が会長の間に分業をしようと約束されたことを私は忘れていない。武見さんは分業に基本的には賛成されていると考えている。

武見会長 そうだ。私自身も分業している。しかし現在の医師の技術評価は余りにも低すぎるので現状の点数では問題がある。再診療五〇円では全く話にならない。少なくとも再診療一〇〇〇円、処方箋料五〇〇円くらいの技術評価がなされなければならない。 石館会長 その点は同感です。

昭和四十八年十一月十六日、日医の理事会は、医師の報酬は物に依存することから完全に脱却し、技術に重点を置くべきとの基本方針を打ち出し、処方せん料を五年以内に一〇〇点とし、その段階で医薬分業を完全に行うことを決定した。さらに、十二月五日、日医は厚生大臣に診療報酬に関する要望書を提出、「今回の改定は向う五年間の診療報酬体系の前進方向の出発点になるものであり、差し当たっての目標を医薬分業に置くものとする」と表明した。

折から、石油原産国による原油価格の大幅引き上げが、世界経済に大きな打撃を与え、日本においても、経済混乱が巻き起こっていた。そんな状況下の昭和四十九年二月の医療費改定により、医師の処方せん交付料六点が一〇点に引き上げられた。さらに、物価高騰への対処として十月、その年二度目の医療費改定が行われ、処方せん料は一〇点から五〇点に一挙に引き上げられた。これを機として、医療機関の院外処方せん発行機運が高まり、医薬分業は、本格的な実現に向けてその一歩を踏み出す。いわゆる〝医薬分業元年〟の到来であった。

( 第二部 完 )